社会のタネ

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734 子どもの「学習」のあり方を問う

大正自由教育を代表する実践家であり研究者である木下竹二。

氏の『学習原論』が出版されたのは大正12年、1923年。

ほぼ100年前。

しかし、今読んでも色あせることのない内容となっている。

 

小学校学習指導要領が新しくなり、「問い」が重視される内容となっている。

これからの答えのない時代、自らが問いをもち、よりよく問題解決していく力が重視されてきたからだと考えられる。

社会科の学習指導要領の中には

「問いとは、調べたり考えたりする事項を示唆し学習の方向を導くものであり、単元などの学習の問題はもとより、児童の疑問や教師の発問などを幅広く含むものであると考えられる。(p19)」

と記されている。

授業研究が行われる中で、これまで多く研究されてきたのは「発問」だと言える。

いかに良質の発問を行い、子どもに思考させるかについて論じられてきた。

 

 しかし、木下は次のように述べる。

・元来疑問は教師が提出するのは主でなくて学習者が提出することを主とせねばならぬ。

・教師の発問は主として学習者の優秀なる疑問を誘発するために使用したい。

・学習者は、疑問をもって学習を開始し、疑問を持って学習を閉じる

・学習はけっきょく自問自答のところまでいかねばならぬ。

つまり発問は、子どもの思考活動を促すだけでなく、子どもに問い方を教え、子どもが自ら問うことを学ばせることが重要だというだ。

木下は大正末の時点で、今日にも通用するような発問観に達していた。

しかし、子どもたちが「問い」をつくり出し、自問するのは簡単にできることではない。

まずは教師の発問からはじめ、徐々に木下の主張するように子どもが自ら問えるようにしていけるようにしたい。

 

 次の木下の言葉は、子どもの教育に関わる者として常に心に留めておきたい。

・社会万般の改良も人生の創造もみな疑問から始まってくる。疑の正反対は信であるけれどもその実疑は信に入るの門で昔から大疑の大悟ありといわれている。自己建設の学習も疑問をもって出発点とする。学習者は疑問を持って学習を閉じる。学習のさい優秀なる疑問を起こすことのできたものはすでに大半成功しているものである。学習者は学校にでるとき家庭に帰るときもつねに新しい疑問をもっていく。かれらは疑問と常往することを必要とする。

 

 

 さらに、『学習原論』に関連して興味深い書がある。

長岡文雄(1984)著『学習法の源流 木下竹二の学校経営』である。

本書は、長岡が20年以上研究を続けた木下実践をまとめた書で、木下の「学習」について知るには必読の書と言える。

長岡の具体的な目標であり、学び続けてきた存在である木下。

氏は、機関誌『学習研究』の創刊の辞の冒頭で、次のように記している。

学習即ち生活であり、

生活即ち学習となる。

日常一切の生活、自律して学習する処、

私共はここに立つ。

他律的に没人間的に方便化せられた教師本位の教育から脱して、

如何に学習すべきか、

如何にして人たり人たらしめ得るか、

そのよき指導こそ教師の使命である。    

       (略)        (大正十一年)

 

 

木下の「学習法」は、「自立的学習法」。

子どもの学習力を尊重している。

教師の授業技術や指導法はもちろん大切だが、子どもの学習法や学習力について研究する必要性を感じている。

子どもたちがどのように学びに向かっていくのか。

学習中、子どもの中でどのようなことが行われているのか。

学習者である子どもの目線から、「指導」ではなく「学習」のあり方について考えていかなければいけないと感じている。

学習者である子どもが主語になって語れる実践、研究を進めていきたい。

 

〈参考文献〉

木下竹二(1972)『学習原論』明治図書

長岡文雄(1984)『学習法の源流 木下竹二の学校経営』黎明書房

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