先日、鼎談させていただいた中で、子どもの「見取り」ということが話題になりました。
「子ども理解」とか、「子どもを見取る」とか、けっこう普通に使っているけど、その意味をちゃんと言語化できていないなと反省しました。
そこで、色々と文献を漁り、自身の実践と照らし合わせて考えてみました。
子ども理解の目的は、一人ひとりの子どもをよく知り、教育実践を子どものためによりよいものにするためであり、子どもを理解することによって、子どもをどのように教育するのかを考えることです。
大村はま(1994)も、「子どもを知るとうこと、子ども自身より深く知るということ、親をも越えて子どもを知るということ、これがまず教師として第一のことでしょう」と述べています。
子どもを理解するということは、目に見える姿だけではなく、子どもの思考や感情等、目にはみえないものを読み取っていくことも含まれます。
その子のよさを知ることであり、愛情をもってその子に接することだと考えられます。
学術的には、子どもはどのように成長発達するのかを明らかにすることによって、子どもとは何かを問う「子ども研究」と言えるようです。
われわれ教師は、子どもを理解しようとするために、子どもを見取ろうとします。
教育用語としてよく使われる「見取り」は、子ども理解とほぼ同義と考えらますが、子どもを見取るための教師の働きかけが前面に出る感じがします。
「見取り」とは、
・積極的に、意識的に、継続的に、子どもに関わること
・子どもの内面をありのまま、まるごととらえようとすること
・子どもの世界に近づこうとすること
と捉えてみました。
子どもの見取りは、子どもの事実を根拠に子どもを探り続けること。
それを支えてくれるのは、子どもへの共感、愛情、敬意、願いであり、教師の感性、人間観、子ども観、授業観であるという捉えです。
図にすると、こんな感じでしょうか。