「透明性錯覚」に陥っている事例は小学校現場にも多くある。「きっとわかっているだろう」「わかってくれているはず」と思う方が楽だからだ。例えば、学校行事として例年行われる運動会や音楽会。毎回同じように流れている学校行事だから、暗黙の了解ということで進んでいくことがよくある。しかし、実際に細かいレベルで見ていけばそうでないことが多々ある。十分なコミュニケーションを図ることなく事を進めていく中で、「え、そういう意味じゃないんだけど!?」「なんで○○さんはわかってくれないんだろう?」といった事態に陥ることがよくある。そういう多くの場合は、他責となり、自分に引き寄せて考えようとはしない。自分自身の今までの経験と自分の解釈の枠組みがあるからだ。
『他者と働く−「わかりあえなさ」から始める組織論』(宇田川元一,2019)では、解釈の枠組みのことを「ナラティブ」と説明している。そして、新しい関係性を築く方法が「対話」だと説明している。対話のプロセスを
① 相手と自分のナラティブに溝があることに気づく
② 溝の位置や相手のナラティブを探る
③ 溝に橋を架けられそうな場所を探す
④ 実際に行動し、橋(新しい関係性)を築く
という順序で説明している。そもそも自分と相手との間には溝が存在することを前提として考えることが重要だと感じる。その溝に気づかないまま相手の領域に入り込もうとするから意思疎通ができないことが多くある。「透明性錯覚」は、本当は相手との間に溝があるにも関わらず歩み寄れているという錯覚から陥る状況ではないかと捉える。
宇田川は、対話を「権限や立場と関係なく誰にでも、自分の中に相手を見出すこと、相手の中に自分を見いだすことで、双方向にお互いを受け入れ合っていくこと」と述べている。自分の中に相手を見出したり相手の中に自分を見出したりという行為は、心理的にも相当なエネルギーが必要だと感じる。できれば避けて通りながら日常を過ごしたいと感じることが大半だろう。しかし、本当の子ども理解や同僚との良質の関係を築くためには、心理的負担を避けて通ることは難しいと考える。
現場でよく言われる言葉は、「○○の親は〜だからな」「○○さんは〜な性格だからすぐに失敗するよね」という言葉ではないだろうか。本当にそうだろうかと思う。十分なコミュニケーション、十分な事実の記録もとらないままに、一事実の印象のみで判断していることが多いのではないだろうかと思う。
子ども同士であればなおさらだろう。子ども同士のトラブルのほとんどは、これらコミュニケーションの不足から生じているものだと感じる。よりよいコミュニケーションの方法を教えていない我々大人の責任も感じる。
子どもに良質なコミュニケーションをもたせるためにも、自分自身がコミュニケーションを図れるように、日常の対話経験から意識していきたいと考えている。自分のナラティブを脇に置き、相手のナラティブを理解した上で、一歩踏み込む努力をしているのかを自分自身に問いたい。