社会のタネ

社会科を中心に、アートや旅の話などもあれこれと。

1944 『スマホを捨てたい子どもたち』

 山極寿一氏は日本の人類学者。ゴリラの社会生態学的研究をされています。その山極氏による一冊が『スマホを捨てたい子どもたち』。「ゴリラとスマホとどう関係があるのだろう?」と思われないでしょうか。

 山極氏は、京都大学総長として大学の経営に取り組む傍ら、これから大学に入ってくる若い世代のことをもっと知ろうと、高校生や小中学生と話す機会を多くしています。スマホを使用している子どもたちに対し、「スマホを捨てたいと思う人?」と聞くと、多くの子が手を挙げるそうです。山極氏はその理由を、ゴリラと行動を共にしてゴリラと共に暮らした経験をもとに、様々な視点から本書の中で語ります。

 例えば、身体的なつながりを大切にするゴリラと、言葉で通じ合おうとする人間との違いから考察します。人間は言葉を使うことでルールをつくり出し、相手との適切な距離を保てるようになりました。しかし、言葉が先行することで失われた身体感覚があります。また、言葉は便利ですが、抽象化されたものです。相手の感情までよくくみ取ることができません。そのため、相手との関係がギクシャクすることもあるでしょう。

 文字にすると、なおさらです。文字のやりとりには時間的要素が含まれるようになります。実際に肉声で言葉を交わしている状況と違ってきます。文字でのやりとりが中心となるSNSで、本当の対話ができるのでしょうか。本来、様々な「つながり」をつくるために普及したスマホ。本当の意味で人々は他者や世界とつながっているのでしょうか。身体感覚のないバーチャルな世界の中で子どもたちは自分が何者なのかが分からなくなり、孤独感をいっそう強めているのかもしれません。

 山極氏は、ゴリラから学んだことをもとに「人間は本来、他者に迷惑をかけながら、そして他者に迷惑をかけられながら、それを幸福と感じるような社会の中で生きていく生物です。」と述べています。私もそう思います。デジタル社会は0か1かという「間」がない発想。「仲間なのか、仲間ではないのか」と迫る SNSの世界がまさにそうでしょう。息苦しさを感じます。どちらにも属するかもしれないしどちらにも属さないかもしれないという「間」の発想、包み・包まれる里山のような感覚が、今こそ必要なのではないでしょうか。

 山極氏の書籍はどの書籍も、我々人間にとっての大きな問題提起を含んでいます。本書以外の書もぜひ読まれてみてください。私もゴリラから多くのことを学び、ゴリラのことが大好きになった一人です(笑)。

1493 新年度 授業開き研修会

この料金で、僕のお話を聞きに気てくださる方がおられることは想像できませんが…。
お一人でも参加してくださる方がおられれば全力を尽くします^_^
それだけのお土産になるものは用意したいと考えています。
とりあえず
・社会科授業づくりで大切なこと
・社会科授業づくりと学級づくりのつながり
・Less is moreの社会科授業のあり方
・ゴールの姿から見据える方法
・各学年の授業開きのあり方
・実際の授業開き〜4月の具体の様子
・全学年内容を俯瞰する手立て
あたりは、お話しようと考えています。
新年度、ちょっと社会科の授業づくりや社会科を通じた学級づくりに力を入れようと思われている方、ぜひご参加ください^_^

 

1489 人に浸る

昨日、別の学級で授業をする機会があって、自分の学級で行った授業をした。
人を通して考える授業。
先に様々な人の立場に立ち、明確に立場を考えて判断する子ども達。
これ、うちのクラスでは少し違っていた。
うちの学級はどっぷりその人と同化して、その人になって考える傾向が強い。シンパシー的?
同感と共感、これはどっちも大事で、もちろんその時の授業の構成や進め方、問い等によって変わってくるんだろうけど、今までの人との出会わせ方や子どもの成長段階によってもやっぱり変わってくることを実感。
意図的に立場に立たせる(多角的に見る)方法をさせる必要もあるだろうと考えると同時に、子ども達ありのままの感情でいっか、とも考える。
その人にどっぷりと浸る感じ。
子どもの姿から学ぶことが多い。

 

1487 4月の「超具体」を

育てたい子ども像を明確に持ち、目指す姿から逆算して4月に何をしているのか、超具体の話をしようと思っています。
今までほとんど語っていない内容になると思います。
できるだけ双方向の研修会になるようにしたいと考えています。
よろしければご参加ください^_^
 

1486 「なぜ?」と「どのように?」

確実なデータに基づいて、様々な「納得の構造」について日本とアメリカを比較しながら著された良書です。

「なぜ?」と「どのように?」について、本書の第5章の歴史教育における日本とアメリカの比較の所に具体的に記されています。

アメリカでは原因の特定を求める「なぜ(why)」であったのに対して、日本では出来事の展開や状況、歴史上の人物の気持ちを問う「どのように(how)」「アメリカと比較して日本の教師と教科書が「どのように」という質問を多くしているのが目を引く」p120

など。

なぜ日本とアメリカで大きく違うのかを、日本の共感力と、アメリカの分析力や問題解決能力をもとに説明されています。

また、「なぜ」と「どのように」の性質の違いや「なぜ」と問う意味について論じられたり、奥西一夫氏の論文を引用したり、とても刺激的です。

分析的に読み進めたい一冊です。