社会のタネ

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685 「話し合うことは人を機敏にし、書くことは人を確かにする」

 「文字言語」が生まれるまでは、「音声言語」と身ぶりで人はコミュニケーションを行ってきた。やがて文字を発明する部族や民族が現れ、それが広まっていった。それから人は、「文字言語」と「音声言語」を使い分けてコミュニケーションをとるようになっていった。

 

ウォルター・J. オングは、著書『声の文化と文字の文化』の中で次のように述べている。

「一次的な声の文化がはぐくむ性格構造は、文字に慣れた人びとの間でふつうにみられる性格構造と比べると、ある意味ではいっそう共存的であり、外面的であって、内省的な面が少ない。口頭でのコミュニケーションは人々を結び付けて集団にする。読み書きするということは、心をそれ自身に投げかえす孤独な営みである。」

音声言語が人々を結びつけるという利点について説明し、逆に文字言語は「孤独な営み」と説明している。しかし、書くことによって言語は視覚的なものになり、詳細な記録を残せることから科学の発展にもつながった。当然のことであるが、どちらの言語が果たしてきた役割は大きい。

 

 教育現場で考えてみると、どちらかといえば音声言語にスポットが当たっているように感じる。例えば、学習指導要領が示す「主体的・対話的で深い学び」と言われるように、対話的な教育活動として、音声言語のやり取りが実践としても多く感じる。

 確かに、音声言語によるコミュニケーションを通して子どもたちは関わり合い、新たな見方を手に入れることができる。しかし、対話は簡単に成り立つものかというとそうでもない。波多野完治は『心理学と教育実践』の中で、「主観的な認識による客観的現実の反映の過程において思考を明確に定式化するために、また現実についてのこれらの思考を、またそれに関連した情動的、美的、意志活動的その他の経験も同様に、社会的に伝達するために、役立つところの言語記号のシステムである。」と述べている。音声言語を受け取るにはそれなりの訓練が必要だと読み取ることができる。また、宇佐美寛は、「『対話』は表現・伝達、つまりコミュニケーションの技術なのであり、思考の技術ではない。」と述べ、「対話という技術には、それ(思考を鍛えること)がない。文章を書いて鍛えられるような部分、つまり思考の中心的部分は、対話では鍛えられない。」と述べている。本質的に思考をするのは書くこと、つまり文字言語であって、対話と言う方法は重層的な思考を妨げる害でしかない、と主張している。教育現場において、「音声言語」のやりとりのみに力を入れるのではなく、「文字言語」の重要性について再確認する必要性を感じる。

 英国の哲学者フランシス・ベーコンは言う。「読むことは人を豊かにし、話し合うことは人を機敏にし、書くことは人を確かにする」と。読み書きによって十分に思考した上で、話し合うからこそ時に応じて心を動かせるような人になるのだろう。

 

最近ではSNSが広がり、曖昧でもやり取りがすぐにできる文字の世界が新たな「音声言語」として現出している。「文字言語」について改めて考え直すときなのかもしれない。

 

〈参考文献〉

ウォルター・J. オング(1991)『声の文化と文字の文化』藤原書店

波多野完治(1973)『心理学と教育実践』金子書房

宇佐美寛(2015)『対話の害』さくら社