社会のタネ

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1407 先人の取り組みから熟慮する

 大正期における新教育の共通点は、児童中心の教育であり、子どもの個性を尊重する教育であり、自学主義の教育でありました。その中でも、木下竹次の奈良女高師附小における新教育は「奈良の学習法」の名において、大正時代後半の教育界を風靡しました。「奈良の学習法」は、「学習者の全生活が学習の機会である[1]」と木下が述べるように、生涯を通じて考えられる生活発展主義に立った学習である「合科学習[2]」を中心として行われていました。

 しかし当時、全国の小学校教師によって模倣されたのは、生活教育のあり方や「合科教育」よりも、教科学習指導における「独自学習」と「相互学習」でした。「独自学習」とは、木下の学習法の中核をなすもので、「学習はみずから機会を求めみずから刺激を与え、またみずから目的方法を立てて進行するところに成立する[3]」という考えのもと、個人で追究する学習方法のことです。「相互学習」は、いわゆる発表会や報告会的に行うのではなく、「独自学習」で耕してきた自らの考えを突出させ合ったり、子どもの中心問題を取り上げて揉み合わせたりする学習方法のことです。木下の学習法は、「独自学習」からはじまり、「相互学習」を経て、また「独自学習」にもどります。「独自学習→相互学習→独自学習」という形を取りました。その組織方法は、従来の画一的な教育方法を打破する「自律的学習法」とも言えるでしょう。(紙幅の関係でここでは詳細を省きます。)

 木下の生活教育の全構想からすれば、「独自学習」と「相互学習」はそのカリキュラムの一部である一つの学習方式に過ぎません。しかし当時は、生活教育の構想を網羅的に捉えられず、「奈良の学習法=独自学習と相互学習」「個別→協同→個別」という風に、形式的なものだと誤解されていたことも多かったようです。

 このことは、今でも同じことが言えるかもしれません。「個別最適な学び」と「協働的な学び」が、「個別学習」や「グループ学習」のように、学習方式のみで語られるのではないかということです。このような形式主義の考え方が、そのものの本質や理念を置き去りにした形骸化につながります。今一度、何が大切で、何を引き継いでいくべきか、先人の取り組みをふり返りながら熟慮していく必要があるでしょう。

 

 

[1] 木下竹次(1923)『学習原論』目黒書店, p.182

[2] 木下における「合科」は、単に複数の教科を合わせることではなく、「全一的生活」を遂げさせるという目的を含んでいた。「合科学習」は、戦後の新教育の中で、「奈良プラン」における「しごと」として位置づけられ発展した。

[3] 木下竹次(1972)『学習原論 新訂版』明治図書, p.20