社会のタネ

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1460 発問の歴史を概観する③

(4)新教育の影響

 明治30年代は、授業の実践や理論においても、20年代とはくらべものにならないほど活発な議論が展開されました。明治以来の硬直化した教授を批判したのが、新教育の系譜でした。[1]

 

◼️学習者主体へ

 たとえば樋口勘次郎(1899 明治32年)『統合主義新教授法』です。発問についてまとまった言及はありませんが、子どもの学習を重視する活動主義を主張しました。「発達は活動の結果にして、発達の分量は活動の分量に比例するものなれば、教授が生徒を活動せしめざるべからざるは論なし」という樋口の発達観は、授業や発問の形式主義を克服して子どもを学習の主体にしていく基本原理でした。

 東京高師附属小学校の加藤末吉は、「児童を中心とした教授法」の確立を目指そうとしました。『教壇上の教師』『教室内の児童』(1908・明治41年)に授業を教授と学習の緊張関係としてとらえる典型例が示されています。

 

◼️分団式教育による自立

 画一化した学級教授を大きく批判したのが、『分団式動的教育法』(1912・大正元年)で有名な及川平治でした。及川は次のように述べています。

「教師が教えたから児童の知能が発展するのではなくて、児童が学んだから知能が進歩するのである。ゆえに真に教えるとは真に学ばせる事である。」

及川は、学級の授業に分団(可動分団式)をとり入れた分団式教育を実践します。及川(1910)は、分団式教授をつぎのように説明しています。

「分団式教授(グループ、システム)は学級教授の利益を保存しその不利益を除去せんがために個別教授を加味せるものにして実に全級的個別的教授の別名に外ならず」

 分団にすることで、学習に遅れる子どもの救済や予防に重点を置きました。すべての子どもに「真に学ぶこと」を可能にする方法を考え、実践しました。 子ども達に自問自答的な学習活動を保障し、子どもたちに自問自答できる学習能力を形成しようと考えました。発問は、子どもに自問する力を形成し、子どもを教師から自立させることが目的のようなものでした。

 

◼️発問観の転換

 発問の目的を自問自答できる学習能力の育成にあることを明確に打ち出したのが前述した槇山でした。槇山(1910)は『教授法の新研究』で発問法を「児童をして自ら活動せしむるように仕向けて行く所の大切な方便」と規定します。それは、発問の目的は自問することを教えることだとする発問観である「代理発問」観でした。教師は、子どもに問い方を教えるために発問するというものです。槇山は、明治末の時点で、このような「教えること」と「学ぶこと」の一体的に統一するべき現代的発問観に達していました。

 

[1] 「新教育」とは、旧来の教師中心の画一的、注入主義的教育を批判し、子どもの生活、活動、興味を中心にした教育課程、教育方法を試みるというもの。19世紀末から20世紀初頭にかけて欧米先進諸国を中心に世界的に広がった 。