社会のタネ

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1977 戦後社会科をめっちゃかいつまんで整理

■戦後社会科と問題解決学習
「今後の教育、特に社会科は、民主主義社会の建設にふさわしい社会人を育て上げようとするつもりであるから、教師はわが国の伝統や国民生活の特質をよくわきまえていると同時に、民主主義社会とはいかなるものであるかということを、すなわち民主主義社会の基底に存する原理について十分な理解をもたなくてはならない」
これは、昭和22年5月に刊行された学習指導要領社会科編 Ⅰ(試案)に記されている社会科の目的の一つです。
戦後、終身、歴史、地理などの教科を廃止してそれらの内容を統合し、民主主義社会の建設という課題性をもって誕生したものが社会科という教科でした。
 昭和26年7月に刊行された学習指導要領社会科編 Ⅰ(試案)には次のように記されています。
「社会生活を児童の現実的な生活から切り離し、いわばかれらから離れて向こうにあるものとして、その必要や関心の有無にかかわらず、断片的に学習させ、社会に関する知識を持たせるというようないき方をとらずに、かれらが実生活の中で直面する問題を取り上げて、それを自主的に究明をしていくことを学習の方法とすることが望ましいと考えられる。」
 ここに、問題解決学習を基本的性格とすることが明確に記されています。
 つまり、戦後社会科は、民主社会に生きる人間の資質・能力を育てる市民教育というねらいをもち、カリキュラム構造としては、統合社会科という性格を有していました。また、学習方法論としては、問題解決学習を前面に打ち出して出発しました。
 
■なすことによって学ぶ経験主義教育
 戦後社会科の実践と研究の実態は、デューイに代表される経験主義の教育を中心としていました。社会科授業を支えていた理念は、「なすことによって学ぶ」でした。「ごっこ活動」「見学・調査活動」「グループ活動」等の活動主義の教育は、戦後の新教育を盛り上げ、多くの教師の興味と関心を引きつけました。
 しかし、「活動あって学習なし」と批判される実践が多かったというのが現実でした。
そうして、昭和20年代半ばから後期にかけて、社会科を中心とする戦後の新教育への批判が生まれていきました。矢川徳光(1950)は、『新教育への批判』の中で、社会科の実践を「はいまわる経験主義」「はいまわる社会科学習」といい切りました。「なすこと」が目的とされ、「学ぶ」ことが欠如していた学習に対する指摘でした。
 
■問題解決学習から系統学習へ
 昭和30年、33年と行った学習指導要領の改訂では、戦後社会科の整理を試みました。その特徴の一つは、系統性の強調で、子どもの発達段階に応じて内容の系統性を確保しようとしました。「問題解決学習」から「系統学習」という主張が広く使われるようになりました。
昭和33年度(1958年)改訂学習指導要領では、内容中心主義になっていきました。子どもが主体的に学ぶ社会科から、多くの内容をつめこむ社会科授業へと変化していきました。この膨大な教育内容を整理し、必要なものを構造的に捉えさせたいという現場からの要請に応じて提示されたのが山口康助の『社会科指導内容の構造化』でした。