社会のタネ

社会科を中心に、アートや旅の話などもあれこれと。

1462 発問の歴史を概観する⑤

(6)戦後の日本教
◼️新教育の流行と衰退
 1945年9月、第二次世界大戦が終わった直後に、文部省は「新日本建設の教育方針」を発表しました。これは、民主的で文化的な国家の構築に必要とされる教育の基本的な指針を示したものであり、戦後の教育改革のスタート地点とされました。
戦後の日本では、アメリカの教育思想の影響を受けて、「新教育」が再び流行を見せ始めました。この時代に新たに導入された社会科教育は、子どもが自ら問題を解決する学習方法に重点を置き、多様な教育活動が展開されました。さらに、コア・カリキュラムや生活カリキュラムを中心とした教育プログラムがいくつかの学校で実施され、「個性」を重視する教育方針が採用されました。
しかし、この教育改革の勢いは、1957年の「スプートニク・ショック」をきっかけに衰え始めました。ソ連による世界初の人工衛星打ち上げによって、アメリカでは危機感が高まり、「新教育」への批判が強まりました。この批判は、学力低下への懸念と、先進的な知識を詰め込む重要性への傾向を強めることに繋がりました。1960年代には、教育の「現代化運動」と称される動きが生まれ、教師中心で一方的な教育や画一的な大規模なクラスでの教育が主流になりました。

◼️社会科における「問題」
 社会科教育において「問題」が問題にされたのは1947年社会科発足当初からでした。日常で出会う具体的な問題を取り上げ、その問題を解決していこうとする学習でした。子どもの切実な問題に目が向けられ、その問題解決に向けて教師と子どもが共同的に学習を組織していく学習原理が定着したのです。
 しかし、文部省指導要領の「問題」は現実の課題から断絶していると批判を受けます。1940年代の後半、民主主義教育協会の石橋勝治、今井誉次郎は、日本の現実課題を教育課程の中に位置づけていく必要性を主張しました。
 1950年代初頭、コア・カリキュラム連盟において、生活実践コース・生活拡張コース・基礎コースの3層と表現・社会・経済(自然)・健康の4領域からなる「三層四領域」論が提起されました。日本社会の基本問題に向かう問題解決学習を実践の方針とするに至りました。
 授業構成の基盤となった問題解決学習の「問題」は「子どもの問題」か「社会の問題」かという2つに分かれていきました。「問題」とは何か、「どんな問題が大事か」ということは追究されましたが、どのような「問題」を生み出していくかという教師の働きかけにはなかなか目を向けられない現実がありました。
 「子どもの問題」と「社会の問題」を関連づける理論の必要性は日比裕(1968)等によって指摘はされていました。しかし、具体的に試みられるようになったのは、1980年代になろうとするときでした。例えば、二杉孝司(1980)は、吉田定俊の「水害と市政」、永田時雄の「西陣織」の実践を分析し、谷川彰英(1979)は、清田健夫の「三保ダム」の実践を分析しました。これらの分析を経て、子どもの問題の成立において教師の指導性の必要を主張しました。「子どもの問題」と「社会の問題」を分け、その関連構造を明らかにしようとしてはじめて、教師の発問を含めた教授行為について論理的に追究できるようになります。