「進みつつある教師のみ人を教うる権利あり」とは、ドイツの教育学者ジステルエッヒの言葉である。
厳しい言葉ではあるが、我々教師が進んで伸びようとする姿に子どもは感化される。
教師が歩みを止めてはならない。
しかし、ただ歩み続ければいいという訳ではない。
断片的な知識の獲得だけでなく、向上的に自分自身を変容させようとする姿勢が必要となる。
そうするには、経験を意図的に積み、それに整理を加えなければいけない。
正にドナルド・ショーン氏が言うように、「反省的実践家」とならなければいけない。では、「反省的実践家」であるために何が必要か。
多くの条件が存在するが、ここでは「書く」ということに焦点をあてる。
「記憶よりも記録」。
常に肝に命じている言葉である。
どれだけ記憶力のいい人でも、時間が経てばその記憶は薄れてしまう。
記憶の上にたって、知的作業を行うことは不可能に近い。
忘れないために記録する目的もあるが、記録は、思考するためにあると考える。
簡単な記録を残すことで、その情報と既有の知識とが結びつくことがある。
そうして新しい発想が生まれる。
創造的であり、知的生産をするためにも多くの記録は必要である。
その記録として、教師であれば主に「授業記録」や「子どもの記録」、「日々の記録」などが考えられる。
「書く」ことはアウトプットのひとつである。
アウトプットすることで脳を刺激する。
書くこと自体が思考そのものと捉えることができる。
しかし、実は、書いた後が本当は大切だと考える。
書いたものを読み返すことである。書くことと読み返すことをセットで行うべきである。
書くという行為は、自分自身を客観視するということになる。
書いたものを読み返すということは、客観視したものを再度、主観視するということである。
つまり、一度客観視したものを、再度自分自身のフィルターを通して見つめ直すということになる。
そうする中で、自分自身の「問い」を見つけることができる。
「この時はこう書いているけど、今考えると本当はどうなのだろう?」というような状態である。
その「答え」を知るのは自分自身でしかない。
どの書籍にも書かれていない。
自分自身の追究がはじまり、自分自身の問題解決につながる。
また、記録を読み返した時に、その時の自分自身の問題意識とつながる言葉が浮かび上がる。
例えば、「発問」を中心に授業改善をしようとしている時、授業記録や日々の記録の中の自分自身の発問が目につく。
「何度も発問を変えすぎていることで子どもを混乱させているな」
「全体的に子どもの動きが遅いのはきっと発問と指示を明確にしていないからだな」
と、また省察が行われる。
書いたものを読み返す時に行う省察は、書いた時に行う省察よりもより深いものになる。
より高次な抽象化を行うことができる。
その時の問題意識によって、自分自身の記録の読み方が変わることもまたおもしろい。
つまり、同じ記録でも、その時の状況や必要感などに応じて全く読み方が違ってくる。
記録化することで自分の言葉はいつまでも生きている。
そして、時間を経てまた別の形で生かされることになる。
外山滋比古氏は、『思考の整理学』(1986)の中で、「第一次的思考をより高い抽象性へ高める質的変化である」と述べている。
記録したものの抽象性を高めるために、
「書くこと」
「書いたものを読み返すこと」
「そしてまた書くこと」
を意識したい。
そうすることで、思考の質を高め、新たな知の創造につなげる。
私の経験上、失敗の記録から得ることが多い。
常に自分自身を問い直しながら前へ進みたい。
書き続けることこそが、反省的実践家としていられる方法だと実感している。
「自分はなぜ書くのか」ということを常に意識し、息をするように書くことを続けたい。
〈参考文献〉
野口芳宏(2010)『利他の教育実践哲学』小学館