社会のタネ

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1459 発問の歴史を概観する②

(3)明治の近代学校制度

 日本の教育界に「発問」という用語が登場してくるのは、明治20年代になってからでした。学制発布から順にみていきましょう。

 

◼️開発主義教授法

 1872(明治5)年の学制の発布により、日本の近代学校制度がはじまりました。その頃は、知識注入、技能修得の授業が普通でした。 やがて、ペスタロッチの問答法による開発主義的教授法が取り入れられました。

 1878(明治11)年、アメリカに留学した高嶺秀夫はオスウィーゴー師範学校でペスタロッチ主義の教育方法を直接学んで帰国しました。高嶺は帰国後東京師範学校に勤務し、1881(明治14)年には校長となり、師範教育および初等教育の改善に功績を残しました。その後、ペスタロッチ主義の教育方法が「開発主義教授法」として日本に広まります。開発主義教授理論の代表作である、若林虎三郎, 白井毅編(1883 ・明治16年)『改正教授術』では、「教授の主義」として、「活溌ハ児童ノ天性ナリ。動作ニ慣レシメヨ。手ヲ習練セシメヨ。」「五官ヨリ始メヨ。児童ノ発見シ得ル所ノモノハ決シテ之ヲ説明スベカラズ。」など九つの教授原理が掲げられています。ちなみに、「発問」は「疑問」という名で述べられ、「疑問ノ心得」として、明白・簡約・論理的であること、主題に的中し生徒の力に適していることなどが挙げられていました。

 

◼️ヘルバルト主義

 日本の教授学は、明治20年代後半、開発主義からヘルバルト主義へと転換していきます。しかし、予備、提示、比較、総括、応用といった五段階教授は、発問、問答の形式主義を克服することにつながっていきませんでした。

   谷本富は、ヘルバルト教育学の普及に最大の役割を果たした人物です。1894年( 明治27年)に『実用教育学及教授法』を著し、「発問の心得」にも触れますが、これは『改正教授術』の踏襲で、一問一答の授業展開の中、発問の形式主義を引き継いでいるという点では目新しさはありませんでした。

 

◼️発問法に関する研究

 日本の本格的な発問研究として登場したのが槇山栄次の論文「発問法に関する研究」(1898年・明治31年)でした。この論文は、雑誌『教育実験界』に4回にわたって連載したものです。槇山は、一貫して教師の指導性を強調しますが、その指導性はあくまで子どもの自己活動としての学習を促し組織するものと捉えていました。ここで述べられる「発問」や「発問法」は、「問答」「問答法」の言い換えでななく、発問の形式化に対する批判とそこに新しい質を加えようとする意識が反映されていました。

 槇山の「発問法に関する研究」と並んで、発問を教授と学習を統一する媒介としてとらえる本格的な発問論として登場したのが、1899(明治32)年に育成会により編纂された『発問法』です。『発問法』は、教師が教えたいものをいかにして子どもの学びたいものに変えるか、という観点から発問を把握しようとしました。

   明治20年代後半から30年代前半の時期は、子ども達にいかに答えさせるかということの方がより重要だという考えが生じました。答えの処理法への着目は、発問に答えさせることで子どもの思考活動を保障しようとする動きのあらわれと考えることができます。