奈良女副校長であった土谷正規の定年退職の前に編まれた一冊。
土谷氏の仕事は多岐にわたるが、体育の授業だけに焦点を絞って構成されている。
とは言っても、体育だけでなく、集団指導論、総合学習論、増健論等、様々な角度から迫っている。
それがよい。
土谷が主張していることの数々は、自分が低学年をもった今だからこそ本当によくわかる。
生活は学習。
学習は生活。
子どもの日々のくらしと教科が混じり合う感じ。
次のようなエピソードも本書に収められている。
重松鷹泰らが『たしかな教育の方法』書くために、学習研究会の同人と話し合っていた際のこと。
重松は土谷に訊かれた。
「主事先生は、子どもたちが一日何時間体育をすればいいと考えていますか」
と。
重松は、学習指導要領上に示されている時数をもとに答える。
それに対して土谷は言う。
「いや、そういうことではなく、一日にどの位、とんだりはねたり、歩いたりすればいいかということです」
重松は見当がつかないので土谷の考えをたずねる。
低学年では5時間、高学年では4時間というような答えが土谷から返ってくる。
そのやり取りを通して、重松は次のように述べている。
「体育は、人間の生活の全体にわたって考えなければならないことだ、ということを教えてくれたのである。」
「あとになって(十数年後)、『からだ』とか『養生』とかいうもう一本の柱を立てるべきだったと、思うようになった。」
もしかして、奈良女の学習の柱である「しごと」「けいこ」「なかよし」の他に「からだ」という柱が立っていたかもしれなかった。
そう考えるとよりおもしろい。
土谷が人として大切にしていたこと、その時代だからこそ大切にしなければいけないことが随所から感じられる一冊。
ちなみに本書のまえがきで、編者の小林篤は、次のように述べている。
「実態のない美辞麗句をいっさい避け、土谷先生の授業の記録や、雑誌などに掲載された授業論というような『原資料』を紙幅の許す限り豊富に提示して、『事実をして語らしめる』という行き方をとっていることである。」
本書のように、実践の事実をより客観的に読み取ることができるような書の価値は大きい。