社会のタネ

社会科を中心に、アートや旅の話などもあれこれと。

84 「書くこと」と「読み返すこと」をセットで省察する  

【「書く」とは?】

 私は、「書くこと」をよくしてきた方ではありませんでした。しかし、子どもたちには「書け、書け」と要求してきました。これでよく教師をしてきたものだと、今考えると恥ずかしくなります。

 今なぜ「書くこと」を意識して続けているのか。理由は大きく二つ。一つは、授業改善のため。もう一つは、知的生産のためです。つまり、教師として、一人の大人として成長し、豊かな生き方をしていくためです。

 

【記憶よりも記録】

 「記憶よりも記録」。私が常に肝に命じている言葉です。どれだけ記憶力のいい人でも、時間が経てばその記憶は薄れてしまいます。記憶の上にたって、知的作業を行うことは不可能に近いのです。ですから、気になったことや気づきはその場で記録します。忘れないために記録するのです。しかし、それだけではありません。記録は、思考するために記録するのです。簡単な記録を残すことで、その情報と既有の知識とが結びつくことがあります。そうして新しい発想が生まれます。創造的であり、知的生産をするためにも多くの記録(メモ)は必要なのです。

 

【私の「書く」】

 様々な場面で日常的に「書く」ことを意識しています。その例を挙げます。

・気になったことをメモ帳に書く。(常にメモ帳を持ち歩いている)

・授業記録を書く。

・日々の記録を書く。

・読書記録を書く。

・テーマレポートを書く。

などです。

 紙幅の関係上、共通点のある「授業記録」と「日々の記録」に焦点をあてて説明していきます。

〈授業記録〉

 まず、「授業記録」です。書き方は2種類あります。簡易記録と詳細記録です。簡易記録は、その日に行った授業の簡単な記録です。授業前に、「ねらい」「発問」「子どもの反応」などを書きます。そして、授業後に感じたことや改善点を一言でもいいから記録しておきます。いわゆる〈ふり返り〉です。「一言でもいから」がポイントです。続けることが大切です。

 詳細記録は、ビデオやICレコーダー等を活用します。いわゆる文字起こしです。授業内での教師の言葉、児童の言葉をすべて記録します。ここでの記録のポイントは、「ありのまま」を書くことです。うまくいったことばかりを書きたくなりますが、うまくいかなかったことこそ正確に記録するのです。その「うまくいかなかったこと」を自覚することに価値があります。気づけば改善しようとします。気づかなければ、ただ流れてしまうだけなのです。これでは授業力も上がりません。そして、記録の後に必ず省察を入れます。子どもの変化、想定と実際とのズレ、改善のための視点、成果のふり返り等です。自分自身が素直に感じたことも書き込みます。

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 詳細記録は時間を有します。日常的に行えることではありません。研究授業の時、学期に1回、「ここで!」と決めた時などに行うのがいいでしょう。しかし、私の本当のおすすすめは、日常の授業の時です。そちらの方がより「ありのまま」が出るからです。

 自分の声や表情、姿を見ながら文字起こしすることは非常につらい作業です。目を覆い、耳を塞ぎたくなることもしばしばです。しかし、詳細に記録し、省察することで見えてくるものは確実にあります。客観的に自分自身を省みる時間をとりたいものです。

〈日々の記録〉

 「日々の記録」は2種類に分けています。公開するものと公開しないものです。

 公開するものは「日々是好日」というタイトルでサークルのML上で公開しています。日々の学校での出来事、授業の様子、その時の自分の思考や感情などを毎日記録し、発信しています。公開していないものは、いわゆる日記です。

 公開するかしないかで書きぶりは多少変わります。しかし、その時の感情や思いなど、全面に出すようにしています。特に日記は、後で読み返すと赤面するものが多くあります。しかし、素直に自分の心の赴くままに記録していることに意味があります。それが真実の自分自身の言葉だからです。今現在の自分自身の姿だからです。自分自身の思考、行動、悩み等、自分自身を客観視できる情報が並びます。大切なのは、書くことの習慣化です。書く時間を決める、書く場所を決める等、人に合った工夫が必要です。ちなみに私の場合は、その都度メモしていることを夜寝る前にまとめ、朝起きた時に整理しています。

 

【書いた後】

 以上、本稿では、ありのままに「書く」ことを中心に述べてきました。書くことはアウトプットのひとつです。アウトプットすることで脳を刺激します。書くこと自体が思考そのものです。やはり「書く」ことは大切です。

 しかし、実は、書いた後が本当は大切なのです。書いたものを読み返すことです。書くことと読み返すことをセットで行うべきです。今回私が最も主張したいのはここです。書くという行為は、自分自身を客観視することです。書いたものを読み返すことは、客観視したものを再度、主観視することです。つまり、一度客観視したものを、再度自分自身のフィルターを通して見つめ直すことです。そうする中で、自分自身の「問い」を見つけることができます。「あれ、この時はこう書いているけど、今考えると本当はどうなのだろう?」というような状態です。その「答え」を知るのは自分自身でしかありません。どの書籍にも書かれていません。自分自身の追究がはじまり、自分自身の問題解決につながるのです。

 また、記録を読み返した時に、その時の自分自身の問題意識とつながる言葉が浮かび上がります。例えば、「発問」を中心に授業改善をしようとしている時、授業記録や日々の記録の中の自分自身の発問が目につきます。「何度も発問を変えすぎていることで子どもを混乱させているな」「全体的に子どもの動きが遅いのはきっと発問と指示を明確にしていないからだな」と、また省察が行われるのです。書いたものを読み返す時に行う省察は、書いた時に行う省察よりもより深いものになります。より高次な抽象化を行うことができます。

 その時の問題意識によって、自分自身の記録の読み方が変わることもまたおもしろいことです。つまり、同じ記録でも、その時の状況や必要感などに応じて全く読み方が違ってきます。記録化することで自分の言葉はいつまでも生きています。そして、時間を経てまた別の形で生かされます。         

 

〈参考文献〉

知的生産の技術 (1969年) (岩波新書)

 

子どもを「育てる」教師のチカラ No.36 (2019年冬号)

子どもを「育てる」教師のチカラ No.36 (2019年冬号)