社会のタネ

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854 「個別」概念の歴史的展開(明治時代)

◼️ 明治時代
明治5年の学制の発布が、わが国の近代学校制度のはじまりでした。
その頃は、知識注入、技能修得の授業が普通でした。
やがて、ペスタロッチの問答法による開発主義的教授法が取り入れられました。
明治20年代後半、開発主義的教授法から、予備、提示、比較、双括、応用という五段教授をもって行うヘルバルト主義教授法へと大きく変換していきました。
どちらも「教授法」と称しているだけに、教師中心授業で、子ども達の個性を重視しているとはいえませんでした。
明治30年代は、授業の実践や理論において、20年代よりも活発な議論が展開されるようになります。
この時期のわが国の小学校就学率は急上昇し、明治35年には、就学率が90%を超えます。
 
教授理論においては、教師中心の統制的な教授から、子どもの学習活動を重視する活動主義への移行が見られました。
樋口勘次郎が『統合主義教授法』を著したのがこの時期です。
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樋口は教師主導のわが国の教授を批判し、子どもの学習活動を重視する「活動主義」を主張しました。
子どもの学習活動を重視する新教育の思潮が色濃くあらわれ、体系的な理論づけを行いました。
「個別」概念の萌芽は、樋口の『統合主義教授法』にあらわれていると言ってもよいでしょう。

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