社会のタネ

社会科を中心に、アートや旅の話などもあれこれと。

1467 「個」を位置づけ、願い、待つ

長岡文雄(1983)は、『〈この子〉の拓く学習法』の中で、次のように述べています。
「〈この子〉の学習法は、〈この子〉の個性的なものである。個を全体的に統一して生きるものである。従って、その中には、当然、〈この子〉が、「学級の中でどう生きるのか」ということ、「自分の所属する学級の授業をどうつくるか」ということも含まれている。即ち、「わたし」のなかに、「みんな」が位置づく。このことは、〈この子〉が、「みんな」の中に「わたし」を位置づけることでもある。」
 一人の「個」が、その子独自のこだわりをもち、その子独自の学習法を進めると共に、その子の存在が学級の中にも調和し、融和する感覚です。その子の学びが学級に影響を与え、他者の学びがまたその子の学びを変えていきます。〈この子〉が仲間と自分を磨き合います。
・今村資泰(1975)『ひとりを見なおす国語の授業 』
・小松良成(1975)『ひとりを見なおす社会の授業 』
・近藤恒夫(1976)『ひとりを見なおす算数の授業 』
・宮崎富士也(1976)『ひとりを見なおす理科の授業 』
・清水毅四郎(1977)『ひとりを見なおす学級経営―学級経営の実践的検討』
という重松鷹泰指導、人間教育双書シリーズ(明治図書刊)があります。どの書もひとりの「個」に特化して著された、私のお気に入りの書です。
その中で、今村資泰(1975)は、「ひとりを見なおす」という意義を、3つの視座で捉えています。

ひとりひとりの子どもを、徹底的に凝視すること
ひとりひとりの子どもを注視することによって把持される「子どもの新鮮な可能性の発見」
子どもの新鮮な可能性の発動によって、教師自身が、新鮮で若々しく変革させられること

です。
 正に、ひとりを追い、さぐろうとし、またとらえ直そうとする、教師の覚悟がそこにあります。教師の試行錯誤と教師の変革の連続です。
 一例として、まずは学級内の3人の子を記録することを提案しています。「この子」の具体的な姿をずっと追い続け、その子の様子とその子の学習の記録の具体を継続的に見ていきます。すると、その子のものでしかない学び方やその子だけのこだわりが見えてきます。
子どもの具体の姿に真実があります。そこに、その子の学びの文脈やくらしの文脈が生まれ、その子の「物語」が生まれます。子どもの学びの文脈を読み取り、その子のこだわりを見て、そのこだわりにつき合い、その子と共に教室でくらしていく姿こそ、本当の子ども理解につながるのではないかと考えています。そして、その子の「物語」は他の子の「物語」にもつながります。一人の子をさぐることを通して、その他の子の「物語」の理解も深まりました。「『具体』をみることこそ、『一般』をみること」だということを感じさせられます。
その時、子どもを一面的にとらえようとするのではなく、教師側からの記録や、子どもの表現からのみとりなど、総合的にさぐろうとする必要があります。また、子どもをさぐることは短時間でできるものではありません。
倉富崇人(1974)は、『個を生かす社会の授業』の中で、
「子どもの考えかたをとらえようとするとき一つの仮説をもつことは必要であるが、結論を急いではならない。」
と述べています。教師が子どもの成長を願いつつ、急がずに待ち、探り続けようとする姿勢が必要だと考えます。
すべての子どもにとって「個別最適な学び」を実現するために最も重要なことは、一人一人の「個」をみとり、その子にとって何が最適かを捉えることです。「個」をみとるとはどういうことか、「個」をみとるために何が必要か、「個」をみとるためにどうあるべきか、私たちは何度も問い直さなければいけません。そして、その子のもつ「物語」を愛しむ気持ちをもち続けたいものです。