社会のタネ

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1466 「支援」はいつから?

 「子ども主体」や「学習者主体」という言葉がよく使われるようになり、それらに関する授業実践も多くなってきました。その際の教師の役割として、「支援」という言葉が目立ちます。

 「支援」という言葉の出所は、指導要領の改善に関する調査研究協力者会議が、1991年(平成3年)に報告した「小学校及び中学校の指導要録の改善について(審議のまとめ)」の中にあると考えられます。

 その「Ⅰ改善の基本方針」の2のところで、次のように述べられている。

 

 

したがって、学習指導を進めるに当たっては、児童生徒の自己実

現を目指す学習活動を支援する立場に立って、児童生徒一人一人

の可能性を積極的に見いだし、それを伸ばすよう努めなければな

らない。[1](下線は筆者)

 

 

学習指導に関連する公式文書の中で、はじめて「支援」という用語が使用されました。その後、文部省関係者の論説の中で「支援」が主張されたものが多くなりました。

 文部省が1993年に刊行した『新しい学力観に立つ教育課程の創造と展開―小学校教育課程一般指導資料』の「教育課程一般:新しい学力観に立つ教育課程の創造と展開」の第二節「新しい学力観に立つ学習指導の構想と展開の視点」で、次のように述べられています。

 

このような学習指導においては、学習活動を子供一人一人がそのよさや可能性を生かし、豊かに生きていくことができる資質や能力を自ら獲得したり、高めたりしていく過程としてとらえ、教師は子供たちの立場に立ってそれを支援するという指導観に立つことが肝要である。[2]

 

 子供一人一人が豊かに生きていくことができる資質や能力を自ら獲得したり、高めたりしていくことができるようになることを目的に、教師はその過程を「支援」するということです。

 文部省は、この「指導資料」を発行することで、教育界に「支援を中心に据えた新しい指導観」を正当化しようとしました。この方針により、教育現場は「支援」という概念に染まり始めました。しかしながら、「支援」は「指導」の一環として理解されていました。つまり、教師の役割としての「支援」は、「指導」の具体的な活動の一つとされていたのです。

 しかし、「支援」の重視に伴い、教師の見えないところでの努力が増え、それはより困難なものとなりました。この新しいアプローチが「放任」と誤解されると、教師の無責任さを助長しかねません。「支援」が強調される中、多くの教育関係者は「指導」の重要性を再評価すべきだと主張しました。「指導はもはや必要ないのか?」「『支援』という名の下の放任ではないのか?」といった疑問が持ち上がりました。子どもの学習意欲を喚起するためにも、教師の「指導」の役割は重要です。また、教師は子どもの「支援」に徹するだけでなく、「指導」を通じて子どもたちに必要な知識やスキルを身に付けさせる信念も持つべきです。

結局、教育の理想像としては、子どもの主体的な学習を教師が側面から「支援」する形が求められていました。



 

[1] 小学校及び中学校の指導要録の改善に関する調査研究協力者会議(1991)「小学校及び中学校の指導要録の改善について(審議のまとめ) 」,p. 168.

[2] 文部省(1993)『新しい学力観に立つ教育課程の創造と展開―小学校教育課程一般指導資料』東洋館出版社,p.16.