大西は「発問」「指示」「説明」という3つの指導言のほか、「助言」を重要視していました。「『助言』こそ授業づくりのカギである」[1]と述べます。大西は「助言」の役割として2つ提示します。
1 解答のためのヒントをあたえる。
2 子どもの思考の方向を示し、そちらへ向けて思考をすすめるように調整し、うながす。
例えば、
1「日本国民のリサイクルの意識は最近上がっていると思う?」
2「登場人物の気持ちはわかったけど、今度はそれぞれの視点から考えて書いてみて」
などが考えられます。
「助言」は指導言の中に入りますが、大西は前述の「発問」「説明」「指示」とは系列を別にして分けていました。[2]
たとえば、上記1の助言は「発問」の形で、2は「指示」の形をとっています。1の「日本国民のリサイクルの意識は最近上がっていると思う?」を「最近の日本国民の様子について話し合いなさい」と変えれば、教師の意図は同じですが、「発問」でも「指示」でも通じることになります。つまり、「発問」や「指示」が、すべて「助言」という扱いになるということです。
私の感覚としては、
・「発問」「説明」「指示」は1時間の授業の骨格となる定型的なもの
・「助言」はそれらを補う臨機応変的なもの
という捉えです。
「発問」「説明」「指示」は、1時間の授業を構想する際におおよそ想定されてきます。しかし「助言」は、子どもが実際にどのように反応するかを考える想定力と、その場で臨機応変に対応できる力が試されます。つまり、「助言」は、その時の子どもの反応や様子に応じて変わる「受けの指導言」と言えるかもしれません。だからこそ大西は、この「助言」こそが、教師の指導力によって決まり、授業が成功するかどうかのカギだと述べているのです。授業内での教師の「助言」が少なくなるということは、子どもの思考が働き、学習がよりよい方向へ向いているということになるでしょう。
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[1] 大西忠治(1988)民衆社,p. 172
[2] 詳しくは大西,前掲書,p. 146-181を参照。大西はp151で指導言を「提言」と「助言」に分け、それぞれに「発問」「説明」「指示」が関わるという関係図を示しているが、ここでは「助言」と「発問」「説明」「指示」と大きく分けて考えるという程度に留める。