教科書の活用についての問題意識は、決して近年に始まったものではありません。すでに戦前の時代から、教科書をどう扱うかという視点は議論されてきました。
たとえば、木下竹次は『学習諸問題の解決』(1927年、東洋図書)の中で、教科書のあり方について次のように述べています。
「教科書は、幾多の任務を持って居るが、ともかく学習者は之に依って学習生活を喚起して其の発展を図るに用いるものである」(p.161)
つまり、教科書とは単に知識を伝達するためのものではなく、子どもの学習意欲を喚起し、その学習を発展させていくための道具である、という考え方です。
しかし木下は、教科書を効果的に活用することは決して容易ではないとも述べています。
「教科書を活用して遺憾なく学習生活を為させることは決して容易のことでは無い。教科書を使いこなして行くことは教科書を優に編纂し得る人でなくては恐らくは困難なことであろう。他人の作った教科書を十分に活用する事は、自ら教科書を作るよりも困難だとも云える」(p.164)
このように、教師が教科書を“活用する”とは、与えられたものをそのまま使うのではなく、内容のねらいや構造を深く理解し、子どもの実態に合わせて編集的に使いこなす力量が必要であると木下は説きます。
さらに木下は、「いっそのこと、教師自身が教科書を作るくらいの力量を持つべきだ」とまで述べ、理想的には学習者自身が教科書をつくることこそ、最も価値のある姿であると示唆します。この考え方は、創造的なノートづくりや子どもによる教材構成への参加などにもつながるものです。
そして木下は、教科書に依りつつも、教科書に囚われない学びの姿を理想として次のように述べています。
「教科書を離れず、教科書に囚われず、学習者が自主的に学習して自己の発展を図り、社会的全人となることが最も大切である」(p.164)
この一文に、教科書活用の本質が凝縮されていると言えるでしょう。
また、子どもの生活に即した学びを重視する立場から、木下は教科書の「順序性」についても疑問を呈しています。すなわち、教科書に書かれている順序と、子どもの学習の順序は一致する必要はなく、むしろ一致させようとすることで学びに弊害をもたらすこともあると述べているのです。
この考えに基づき、彼は次のようにも語ります。
「教科書は学習上の一つの道具であって、その使い方にはすこぶる巧拙がある」(p.165)
つまり、教科書は絶対的な“設計図”ではなく、活用の巧みさによって学習の質が大きく左右される道具であるという位置づけです。
さらに彼は、教科書が学習において多様な機能を持ちうることを次のように指摘しています。
「教科書は学習生活中において、あるときは心理探究の案内となり、あるときは知識を取得する源泉となり、またあるときは説明の手段となる。児童は教科書から刺激や霊感を受けて学習に邁進する。実に教科書は重要なる学習環境であり、その使い方如何によって学習を助成する力は極めて大きい」(p.165)
このように、教科書は学習を促進する「環境」としての側面を持ち、子どもの内発的な学びを引き出す力をもっていると考えられていたのです。
一方で、「教科書があると創造的な学びが妨げられる」という見方に対しても、木下は明確に反論しています。彼は、地理や歴史の教科書を例に、教科書と他の環境とを有機的に関連づけることで、「地理心」や「歴史心」の創出に結びつけていくことができると論じます。要は、活用の仕方次第で、教科書は創造的な学習の妨げではなく、むしろ触媒となり得るのです。
このように、教科書をどう活かすかという問いは、実は今に始まったことではなく、100年近く前から教育の本質に関わる重要なテーマとして語られてきました。そして私たちはいま、あらためてその問いに向き合うべき時に来ているのではないでしょうか。知識を届けるだけではなく、学びを育てる存在として――
教科書とどう向き合い、どう使うことで、子どもたちの学びを支え、広げ、深めることができるのか。その問いを、私自身も引き受けながら、これからも考えていきたいものです。