1ヶ月後はこちら。
以下のような考えなどをもって、会を構成しようと思っています。
よろしければご参加ください^_^
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体育には、他の教科のような「教科書」がありません。これは一見すると制約が少なく、枠にはまらない自由な授業づくりができるという点で、個人的にはとても面白く感じています。教材に縛られず、子どもたちの実態やその場の雰囲気に応じて柔軟に展開できる。まさに“生きた授業”がつくれる教科の一つだと思います。
一方で、「教科書がない=拠り所がない」という不安も確かに存在します。特に体育に対して苦手意識をもっている先生にとっては、何をどう教えたらよいのかが曖昧で、授業づくりそのものが苦痛に感じられることもあるでしょう。また、体育が得意な人にとっても課題はあります。自身の経験が豊富であるがゆえに、「自分はこうだったから」「これができれば上手」といった、自分の経験則をそのまま子どもに当てはめてしまうことが少なくありません。これは“体育あるある”とも言える現象で、無自覚のうちに“できる子”を中心とした授業構造を再生産してしまう危険性をはらんでいます。
この構造は、実は社会科とも似ています。社会科には教科書はありますが、特に3・4年の地域学習においては、教科書に書かれている内容をそのまま使用することが難しい場面も多くあります。子どもたちの住む地域によって前提が異なるため、教科書の事例をそのまま扱っても実感をともなわなかったり、「なぜこの地域のことを学ぶのか?」という違和感を覚えたりすることもあるでしょう。実際には、教科書はあくまで“参考”にすぎず、地域に即した内容を教師自身が再構成する必要があるのです。
つまり、体育も社会も、教科書という“設計図”が明確でない、あるいはそのままでは使いづらい教科であり、その分、教師の「意味づけ」や「ねらい」が授業の方向性を決定づけます。拠り所がない不安があるからこそ、「どんな姿を目指したいか」「何を学びの核とするか」を自分の言葉で捉え直し、授業に反映させていくことが重要になります。
型のない授業であるからこそ、「型を自分でつくっていく」覚悟と、それを支える“まなざし”が求められているのかもしれません。
このような意味で言えば、「総合的な学習の時間」もまた、体育や、そして社会科の中でも特に地域学習のように、教科書の枠を越えた設計が求められる領域においては、同様に自由さと難しさを併せもつ存在だと言えるでしょう。
「総合」は、その名の通り、教科の枠を越えて学びをつなげることができる貴重な時間です。だからこそ、子どもたちの興味関心を起点に、地域や社会とつながった探究的な学びを展開することが可能になります。教師の創意工夫によって、多様なテーマや方法が選べる“自由度の高い時間”でもあります。
しかし一方で、明確な教科書や評価基準がないために、どこをゴールに据えてよいかが分からず、「とりあえず職業調べ」「とりあえず地域の調査」など、“テーマ学習っぽい活動”にとどまってしまうことも少なくありません。結果として、子ども自身が何を学んだのか、何に気づき、どう変化したのかという本質的な学びに迫れず、「なんとなく楽しかった」で終わってしまうこともあるのです。
だからこそ、総合の時間もまた、教師自身が「何を育てたいのか」「この学習が子どもにとってどんな意味を持つのか」という理念を持ち、それに基づいて学びのプロセスを構築していく必要があります。自由だからこそ、問いの設定や振り返り、他教科との関連などを意図的に“組織化”していく力が問われるのです。
体育も、社会も、総合も、共通して言えるのは―― 「教科書がない」からこそ、教師のまなざしや意味づけが、学びの質を大きく左右するということなのかもしれません。
つまり、「どんな姿を目指すのか」「何を学びの核とするのか」といった問いを、教師が自らに投げかけ、その答えを授業に反映させていく。
この姿勢こそが、「育てたい学力を明確にする」という観点から見たときの、本質的な授業づくりなのではないでしょうか。