先ほどの「深い学びの余白」で触れたように、学びにはあえて“余白”を残すことが大切です。その視点で考えると、教科書や指導書とのつき合い方もまた同じだと思います。整然とした仕組みがあるからこそ安心できますが、そこに縛られすぎてしまうと、子どもが自分の問いを深めていく余地が狭まってしまう危うさもあります。
今回の論点整理でも、印象的な指摘がいくつかありました。
・教科書が厚くなりすぎて「全部やらなきゃ」と思い込んでしまう。
・指導書も「書いてある通りに進めればいい」という気持ちを強めてしまう。
・学習指導要領が細かいから、教科書も細かく作らざるを得ない。
→ 奈須正裕氏も「そのためにこそ、学習指導要領の構造化を進めていく必要がある」と強調されていました。
・その結果、授業が一時間ごとの「本時主義」にとどまり、単元や題材レベルで子どもの力を育てる発想につながりにくい。
・だからこそ、内容を精選して中核的な概念に焦点を当て、デジタル教材やほかの資料と役割を分担する必要がある。
要するに、「教科書をすべて網羅する」から「教科書で学びをひらく」へと、発想を切り替えていこうということです。
もちろん、教科書や指導書は学びの拠点として欠かせません。ただ、それを“正解が詰まった完成品”として扱うのではなく、子どもが問いを立てたり、自分なりに意味づけたりするための媒介物として見直すことが必要だと思います。
たとえば「ここで子どもが立ち止まりそうだな」とか、「この問いは概念を揺さぶるチャンスになりそうだ」と教師が見抜き、あえて余白を残すように扱う。その工夫こそが、深い学びを立ち上げる入口になるのではないでしょうか。
結局、深い学びを生み出すのは制度やツールではなく、子ども・教材・教師の関わりそのものです。教科書や指導書はその関わりを支える力強い道具ですが、あくまで学びをひらく出発点。余白をどう残すか…。そこにこれからの教育課程の大切な視点があると考えています。
(そんな問題意識から書いているのが「教科書」「指導書」とどうつき合うかをテーマにした本書です。ぜひご期待くださいwご意見いただいた装丁はまだ決まってませんが…(^_^;))