社会のタネ

社会科を中心に、アートや旅の話などもあれこれと。

881 手応えとしての理解

 蜂屋慶(1985)は、子ども理解を客観的科学的理解として子どもを「正しく知る理解」と、主体的抵抗的理解としての「手応えとしての理解」に分けています。

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客観的科学的理解とは、テストや調査、面接など、原因―結果の論理から、子どもを客観的に理解しようとすることだと考えられます

主体的抵抗的理解とは、自分の指導に対して子どもがどのように反応するのかということを元に、主体的に子どもを理解しようとすることだと考えられます。

 蜂屋は、

「主体的抵抗的理解が主観的な間違った理解にならないようにするには、先生が客観的科学的理解を基礎にもつことが必要である。」

と述べています。

しかし、それだけでは、一人ひとりの子どもにどのように働きかければ自己表現をさせることができるかを示してくれないことを指摘しています。

 

そこで、長岡文雄(1977)の「この子に迫る」という表現を使用し、子どもの具体に迫り、子どもの心の中を知る理解である「手応えとしての理解」の重要性を主張している。

ちなみに長岡は、

「どんな子どもの発達についての諸研究があり、蓋然的な見とおしがあっても、決定的に必要なのは、『眼前のひとりひとりの子どもの発達、成長の具体にどこまで迫れるか』ということである。『この子に迫る』ことができてこそ、一般的発達の諸研究も生きるのである。」

と述べています。

 

 目の前の「この子」に対してどのように迫れるのか、この子に対する教師の働きかけの重要性を感じます。

879 子どもの「見取り」

先日、鼎談させていただいた中で、子どもの「見取り」ということが話題になりました。

「子ども理解」とか、「子どもを見取る」とか、けっこう普通に使っているけど、その意味をちゃんと言語化できていないなと反省しました。

そこで、色々と文献を漁り、自身の実践と照らし合わせて考えてみました。

子ども理解の目的は、一人ひとりの子どもをよく知り、教育実践を子どものためによりよいものにするためであり、子どもを理解することによって、子どもをどのように教育するのかを考えることです。

 大村はま1994)も、「子どもを知るとうこと、子ども自身より深く知るということ、親をも越えて子どもを知るということ、これがまず教師として第一のことでしょう」と述べています。

子どもを理解するということは、目に見える姿だけではなく、子どもの思考や感情等、目にはみえないものを読み取っていくことも含まれます。

その子のよさを知ることであり、愛情をもってその子に接することだと考えられます。

学術的には、子どもはどのように成長発達するのかを明らかにすることによって、子どもとは何かを問う「子ども研究」と言えるようです。

われわれ教師は、子どもを理解しようとするために、子どもを見取ろうとします。

教育用語としてよく使われる「見取り」は、子ども理解とほぼ同義と考えらますが、子どもを見取るための教師の働きかけが前面に出る感じがします。

「見取り」とは、

・積極的に、意識的に、継続的に、子どもに関わること

・子どもの内面をありのまま、まるごととらえようとすること

・子どもの世界に近づこうとすること

と捉えてみました。

子どもの見取りは、子どもの事実を根拠に子どもを探り続けること。

それを支えてくれるのは、子どもへの共感、愛情、敬意、願いであり、教師の感性、人間観、子ども観、授業観であるという捉えです。

図にすると、こんな感じでしょうか。

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878 「個別最適な学び」を実現する13の勘所

「個別最適な学び」を実現するにはこの13のポイントがあると考えています。

「個」の学びを豊かにする13のポイントと言い換えてもいいかもしれません。

このことについては、すでにある程度まとめたので、また論じていきます。

 

877 学びほぐし

先日、ある学習会で、次のような発言をされた方がおられました。

「個別最適な学びなど、新たな教育用語がどんどん入り、教育界がめまぐるしく変化していることを感じる。今まで30年以上経験して獲得してきたもの(一斉授業のノウハウ等)を放棄しなければいけないと思うと困惑する」

というような内容でした。

ベテラン教師の方でした。

年齢を重ねても学び続け、自分を変えていかなければいけないと感じておられる素敵な方だと感じました。

それと共に、確かに長年積み上げてきたものを捨て、新たな価値観や考え方、方法を入れていくことは容易なことではないのだろうと感じました。

私はまだそれほど教員をしていません。

それでも自分の中に固定化され、捨てきれないものがたくさんあるはずです。

「こうあるべき」というものがたまっているのかもしれません。

松尾睦(2021)は、先行研究を踏まえた上で、個人アンラーニングを「個人が、自分の知識やスキルを意図的に棄却しながら、新しい知識・スキルを取り入れるプロセス」と定義づけています。

私は鶴見俊輔さんが訳した「学びほぐし」という言葉が好きです。

アンラーニングとは、今自分が持っている価値観や知識、スキル等を見直し、異なるアプローチから検討する学習法のことです。

 

 理屈ではわかりますが、アンラーニングすることは容易ではありません。

アンラーニングするには、自分の価値観や信念を問い直す必要があるからです。

「自分がもっている価値観や考え方は今の時代では古いかもしれない」

「これまでのやり方では通用しないかもしれない」

というように、批判的に見直さなければいけません。

 

 松尾氏は、本書の冒頭で

「『プロフェッショナルになる』ためには、自分の型やスタイルを作り上げなければなりませんが、『プロフェッショナルであり続ける』ためには、確立した型やスタイルを壊し、新たな型やスタイルへと作り直すことが欠かせません」

と述べています。

 

  持続可能で、子どもにとって価値ある教師であり続けるために、「変わり続ける勇気」をもちたいものです。

 

876 不毛な二項対立から抜け出す

教育の世界にも多くの二項対立的な考え方が存在します。

一斉授業か個別学習か

履修主義か修得主義か

デジタルかアナログか

オンラインか対面か

紙か端末か

認知能力か非認知能力か

ゆとりか詰め込みか

系統主義か経験主義か

数え上げれば切りがありません。

 

 苫野一徳(2014)は、教育をめぐる問題は、単純な二項対立で論じられやすいことを指摘しています。

「問い方のマジック」と呼んでいます。

「あちらとこちら、どちらが正しいのか?」と問われると、わたしたちは思わず、「どちらかが正しいんじゃないか」と思ってしまう傾向があるのです。

「問い方のマジック」が、これまでどれだけ教育議論を不毛なものにしてきたかは、いくら強調してもしすぎることはないと述べています。

 建設的に議論するためには、「そもそも何のためか?」という問いにできるだけ共通で確認可能な答えを解明することが重要だと指摘しています。

 

 白か黒かはっきりと分けられるほど単純なものはありません。

「何のための個別最適な学びなのか?」

「何のためのオンライン学習なのか?」

「何のための一斉授業なのか?」、

その「そもそも」を考え、そこから生まれる発想やアイデア、ビジョンを共有していきたいものです。そうすれば、具体的な方法を建設的に進めることができます。

 

二項対立という思考停止状態にならないよう、子どもたちと共に、我々大人にとっても「柔軟な思考」「しなやかな心」「豊かな創造力」が求められています。

 

875 「当たり前」を疑う

個別最適な学びを実現し、「個」の学びを豊かにするために、今まであった「当たり前」を疑うことが必要ではないかと考えています。

例えば、「板書」や「発問」や「授業案」など、今まで教師側がもっていたものを教師の専有物にしないということです。

教師がもつこと、やることが当たり前だったものが多くあります。

それらを子どもと共有したり、子どもに渡したりする発想も必要ではないでしょうか。

「本当にこれは必要なのか」「この意味は何なのか」など、今までやってきたことを再確認する必要があります。

また、それらはだれのためにあるものなのか、再度問い直す必要がありそうです。

子どもの学びのあり方の前に、教師自身のあり方や考え方を変え直し、アップデートさせる必要性を感じています。

 

874 子どもの裁量権

もともと子どもは様々な学び方で学んでいます。

しかし、学校では前を向いて教師の発話に耳を傾け、教師の指示で発表し、話し合い、ノートに書く。

これが当たり前のようになっています。

そのような中、板書を自分たちで書いたり学ぶ場所を選んだり、少し自由度を高めるだけで子ども達は喜びます。

これはある意味、今までそれだけ子どもたちに裁量権がなかったことの表れとも言えます。

 

話し合いたいことをお互い話し合うこと、学びの中にある様々な要素を「自分で決める」ということ、自分で調整しながら学びを進めること。

その子の学びを豊かにするためにも、子どもの裁量権を大きくしていく必要があります。

 

873 個別学習は「発想」

 個別学習が方法論として語られることが多くなっている気がします。

 しかし、個別学習の本質は形態にあるのではなく、その「発想」にあります。

 一見整然としている授業、生き生きとしているように見える授業でも、子どもの中ではそうでもない授業はよくあります。

表面的なものを見るのではなく、子どもの内側にあるものをさぐっていかなければいけないと強く感じます。

 

 そして、個別学習が形態の問題だと勘違いしてしまうと、個別学習が形骸化してしまいます。

ドリル学習さえすればいいとか、そういうものが最たるものだと感じています。

「一人一人の個性や特性に合わせること」、その意味を十分に考えなければいけません。

 

872 一斉授業がすべてではない

教師が一斉授業することで達成できるものはもちろんあります。

しかし逆に、教師が一斉授業ばかりで進めるからこそ失われているものもあります。

例えば、

 教師の問いを考えているうちに子どもの中にある「問い」は消えてしまうのではないか。教師の与える「問い」が本当によいのか考えさせられます。

 子どもが書きたいと思う内容とタイミングを自己決定する機会を失ってしまうのではないか。ふり返りを書かせる教師のタイミングは本当によいのか考えさせられます。

 子どもが考えたいことに対する本当に必要な資料を選ぶ機会を失ってしまうのではないか。教師の指示や説明は本当に子どもが思考するための土台となっているのか考えさせられます。

以上のようなことを考え直す必要もあります。

 

逆に、個別最適な学びの考え方や実践が広まるにつれ、「一斉授業が悪」といった雰囲気にもなりかねません。

一斉授業というより、何の工夫もない一斉画一授業が問題だということです。

 一斉授業がいいのか、個別学習がいいのか、それは教科、単元、1時間の学習内容によります。また、その時間に何をねらっているのかにも大きく影響されます。

 一斉授業を止めるべきだということではありません。

一斉授業のみを中心に進めてきた学校教育のあり方を問い直し、一斉授業、個別学習、それぞれのよさを捉え直すことが必要です。

そして、それらをもとに、授業デザイン、学習デザインを組み立て直す必要があるということです。

 今まで当然のように行ってきたことを一度捉え直し、また新しく組み立てていく必要があります。

自身の方法を一度壊し、立て直すことは容易ではありません。

しかし、今こそその勇気をもちたいものです。