社会のタネ

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683 子ども観と指導観

長岡文雄氏の考え方やエピソードは、 様々な書籍で引用されています。 例えば、下図。

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文部科学省 主任視学官で、子どもの学びに基 軸を置き、その研究と教育の活 性化に向けて取り組んでいる嶋野 道弘氏による『教育の精神と形―学びの本質と確かな指導を求めて』(2006)中での引用文 です。

それをもとに、次のように述べています。

少し長いですが、 以下に紹介いたします。

 

「ここには長岡の子ども観(人間観)、指導観が凝縮して描き出されている。 子どもは、何かさせなければ、自らは何もしない存在ではない。本来、自発的、能動的、向上的である。自分 を取り巻く人や社会や自然からの刺激を受けて、これに積極的に向かっていく。そうした肯定的な子ども観が長岡 の中にある。 だから長岡は、のばし切った手先がふるえる状況を見て取って、つり輪をそっと指先に触れさせてやった。子ど もにとってみれば、触れさせてはもらったが、ぎゅっとつかんだのは自分である。というのが実感だろう。自発 的、能動的、向上的な子どもは、実感した満足感をエネルギーに変換して、今度は長岡のつり輪を目指してくるの である。 ここでは、肯定的な子ども観に立つ指導観がある。これを出発点とした長岡の指導論を推測することができ る。 指導とは、子どもの状況をとらえて、その子どもに見合った適切なかかわり方をしていくことで、一方的に子ど もに介入することではない、と。 そうした指導論は、明確な「形」になっている。長岡は、のばし切った手先がふるえる状況を見て取る、そこま での状況を温かいまなざしで見守り、「ここ」という状況をとらえて、つり輪をそっと指先に触れさせてやったの だった。その振る舞いは、釣り人が水面の浮きをじっと見守り、浮きの微妙な動きにタイミングを合わせて竿を 引くのに似ている。 一方的に子どもに介入することではない、というのは、介入してはならない(そうした誤解に陥りやすい)、とい うことではない。子どもの状況をとらえて、その子どもに見合った適切なかかわり方をしていくこと、すなわち、 子どもへのかかわり方としての「出場」(出のタイミング)と、「塩梅」(出の程度)の問題なのだ。 長岡はそれが絶妙である。それは、長岡の「センス」かもしれないが、センスを超えたところの、確固たる指導 論に裏付けられたものであると言える。絶妙の出場と塩梅は、厳しく、我慢強く、そして、愛情を持って、子ども の状況を見取ることによって成立しているからである。単なる子ども好きな者が、安直に子どもへの手助けをした のではない。高邁な精神が明確な形になっているのである。」

 

意識してしっかりと「観」を磨けるようにしたいものです。