教師主導の授業では、教師が決めたねらいに沿って教材研究がなされます。
授業のよしあしは、教師が設定したねらいにどれだけの子どもが到達したかで判断されます。
例えば、研究授業の協議会で、ねらいに到達させるための教師の教育技術に関する話題で終始するという場面も多く見られます。
子ども主体の授業では、教師は支援者であり、伴走者です。そういう授業では、子どもが教師の想定を超える瞬間を見ることができます。
平野朝久(1995)は、次のように述べています。
「教師が該当の領域について、通常の意味での指導に長けていたわけではないが、子どもの生み出した結果の水準が高く、それを見た人たちから思わず感嘆の声が聞こえるのである。実際に子どもが示す姿は教師の予測を超え、教師も知らなかった優れたアイディアが出されたり、新しい発見があったりすることが珍しくない。」
教師主導の授業では、子どもを自分の想定内の中でとらえようとしてしまいがちになります。
子ども主体の授業では、子どもが教師の想定を十分に超えていく余裕が生じます。
教師は伴走者として子どもと共に追究していく中で、驚き、困り、考え、喜び、困り、感動するようになります。
私自身、一人一台端末が導入され、子どもに任せる学習が増えた際、ワクワクドキドキ胸が踊りしました。
子どもと共に追究する喜びを感じました。
目の前で、私の想定を超えた学びを子ども達が繰り広げたことに、心から嬉しくなりました。
子どもの「想定外の学び」に喜び、その子どもの姿からわたしたち教師が学ぶ姿勢をもつことが重要です。